2.考えることの重要性

majyonohondana 魔女の思考方法論

さて、どういうことにしても、人の話や本に書いてあることを鵜呑みにし、自分で考えないということは、仮にいくら努力して学んだとしても、結局労多くして、となるものです。

もちろん、外国語の単語などはある程度丸暗記しかないでしょう。例えばcatという単語やdogという単語をいくらじっくり眺めたり、どんなに深く考えてもなぜそれが猫や犬という意味になるのかはわかりませんし、もしそれを知りたいなら語源論をしっかり学んで研究するしかないでしょう。それでも、わからないものの方が多いといっても良いほど今では分かっていません。

このように「考えることが不要な部分」は確かにあります。それは「考えるための材料や道具」を頭の中に蓄える段階です。しかし、それはあくまで基本の単語、あるいは初歩の単語であって、さらに数が増えてきた場合、「un-○○」という形をした単語は「○○ではない」という意味になるのが基本のルールだということを知って、似た構造の単語をまとめて憶えるのでないと効率が悪い上に実用の役に立ちにくくなります。例えば、単語を暗記する、というものを例にしても、ある程度から先はやはり「考えること」が要求されるのです。

数学を例にしても同じようなことがいえます。
○+△を見て、「+」という記号は「○に△を加える」という意味であることや、そこで行われる演算は憶えるしかない部分です。また、積分の公式などはニュートンとライプニッツという二人の天才が「思いついて作ったもの」がその後の検証で間違いがないということがわかって公式になったものですから、この二人以上の数学的才能がない人がいくら考えてもそれを導くことはできません。これらも憶えるだけしか必要がないものです。
しかし、足し算と引き算が逆演算であるということはリンゴかミカンをテーブルの前において実験することで納得できますが、微分と積分が逆演算であるということは素直に鵜呑みにしてはいけないのです。
微分はある式を微分すると、その式をグラフとして描いたときの傾きが出ます。積分は簡単に言えば体積か面積が出ます。いくら式変形で逆演算になりそうだと思っても、

「傾きの逆が体積か面積で、体積か面積の逆が傾きです」

と、いわれてどうして納得ができるでしょうか。よく微積分などと簡単にまとめられますが、大きな違いがここにはあります。つまり、

「積分は天才の思いつき、微分は一見公式のようだけど思想だ」

という事実です。これは数学史を学ぶと実感できるのですが、そもそもの由来が違うのでこういう性質の差が出るのです。
ついでに難易度はこの際無関係です。積分公式を考える必要はないけれど、小学校で学ぶ「少数と分数の関係」は十分に考える必要があるものです。
別に数学の解説をすることがここの目的ではないので、これ以上深入りはしませんが、数学の公式ひとつでも、「ほんとうにそうなのか」と疑う姿勢が大切なのです。

さて「考えなさい」といわれても困る、という人が多くいることも事実だと私は思っています。本当はこれは嘆かわしいことで「一億総白痴」といった大宅壮一が存命なら、「今はどう表現しますか」と虐めてみたいところなのですが、大宅氏の言葉を基準にすれば「白痴」という表現が褒め言葉になっているのが実情だといえるのかもしれません。

ただ若い人が「考えろといわれても困る」ということには私も一定の理解はもっています。つまり、ろくな大人、というかろくな頭を持った大人が周りにいない環境で育ってしまったために「考えている大人」を見る機会も「考える方法」を習う機会もないまま成長してしまったら、周りが考えるという能力のないレベルだったわけですから、考える見本がなく、いきなり「考えなさい」といわれても困るのは当然でしょう。

そこで「考えるという技術」の取っ掛かりの例を一つだけ述べておきたいと思います。それは、単語や数学の例で示したように「まづ疑うこと」です。

私が学生や弟子によく言う言葉があります。それは、

「疑って疑って疑いぬけ。本物なら最後には信じるしかなくなるから。逆に言えば、最初から信じなさいと言う人の言葉は信じるな」

というものです。これは全ての学問、思想、宗教その他何にでも通用する方法の一つだと思います。何でも徹底的に疑うのです。納得できるまで質問しまくり、調べるのです。そして、それが真実であり、本物であるなら、最後には疑いようがなくなるのです。そうなってから自分のものとするのでも遅くはないのです。これこそが「考えること」であるといえます。そしてその中で色々なものが見えてきますし、そうした中で得た知識はしっかりとした底力になるからです。

(初出:橘青洲ブログ 2007.8.7 改訂 2021.6.9)

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