3.Witchcraftの宗教にとっての課題

majyosyukyo Witchcraftという宗教

神秘宗教と公教についての一般的解説とWitchcraftの宗教が神秘宗教のみであることによる、特殊性の概略を前回お話しました。

唐突ですが引用から入ります。

四次元感覚は静芸術に流動を容る
神秘主義は絶えず新たに起こるであろう
表現法のいかなる主張も個性の限り可能である

(「農民芸術概論要綱」宮沢賢治)

ここでいう四次元感覚は、せいぜい論理的にとらえられない世界を感じ取る感覚、という程度の意味で、だから次の神秘主義につながるわけなのですが、これは神秘宗教の特質を奇しくも表現しているといえるでしょう。つまり、

神秘を感じ取る感覚は常に新しい境地を切り拓き
神秘宗教は常に新しいものを産み出し
それをどう表現するか、どういう主張として解釈するかは、それを受けた人の数と同じだけある

と、すれば前回お話したこととまったく同じことになります。
また、宮沢賢治が独特の童話の世界、もっといえば神秘的な童話の世界を作っていたことを考え合わせれば、御伽噺に魔女がよく登場することとも、宮沢賢治が神秘宗教の説明になってしまうようなことをおそらく意図せずに書き残していたこともある意味必然的偶然なのかもしれません。

さて、Witchcraftの宗教は基本的に自由です。
しかし、それは様々な伝統を尊重するという意味であって、好き勝手が許容されるという意味ではありません。常識を知らないことと、常識を熟知して打破することがまったく違うように、伝統を知らないことと、伝統を知った上で進化させることはまったく違うのです。Witchcraftの宗教の現状を見ていると、先の例で言えば低俗極まりない、時として日本語としてすら成り立っていない文章らしきものの羅列というものすらあるライトノベルの著者が自分の作品を純文学だと主張しているような悲惨な現状ばかりが耳に入ってきます。

「悪貨は良貨を駆逐する」

と、言う言葉がありますが、まさにそれが起こって来ているように感じます。

『その点において私は危機感を覚えていますし、当然本来のWitchは反論する気にもなれずにまた地下にもぐってしまうのではないかと思っているのです。これはWitchにとっても、Witch志願者にとっても不幸としかいいようがありません』

と私は2007年の段階で書いていました。そして今の状況を見た時、その不安はある程度当たり、同時にそこまですら変化もできなかったという現実に苦笑いをするしかありません。

ただ、この原因には元々のWitchの側にも多少はあると思います。
つまり、神秘宗教であるといいながら、本やその他でWitchcraftの宗教自体を広めている、しかしそれに興味を持った人に対して門戸を閉ざしている、この繰り返しが続いているということは、結局自分たちで勝手にやるしかない、という人を量産してしまっている原因の一つになっていると思います。インターネットの発達はそれに拍車をかけているといってもいいでしょう。

ただ、だからと言ってこういう人たちに私が賛同している部分がある、というわけではありません。実際そういう人たちに門戸を開こうとしても、本人が口で本気だと言っているだけで所詮は片手間なのです。でも、そういう「片手間Witch」の付け入る隙を盛大に作ってしまっている点はWitchたちも真摯に反省すべきだと思っています。

(2007年にこう書いてあるのをアップデートしながら「いや、それは買いかぶりすぎだった」という感想を素直に感じています。もちろんこれも苦笑いと共に、ですが)

さて、Witchcraftの宗教は神秘宗教ゆえに、お手軽片手間で実践することはきわめて問題があるのです。これは単純な精神論や姿勢の問題などではなく、何かの間違いで実効力のある儀式などができてしまった場合に、大変危険だからです。

多くの日本人が宗教を公教のイメージで考えることはすでに述べましたが、Witchcraftの宗教はもっとプリミティブなものです。あえて語弊を怖れずに言えば、悟りとか、神の国とかそういう思想的なものに目を向ける余裕がなかった時代の伝統をDNAに持っている感じがするようにすら思うのです。そうした時として破壊的なエネルギーの塊のようなものを「すぐ行ける所で学べれば」とか、「オンラインで何とか教えてもらえないと生活に支障が出る」などと言っている人がダイレクトに受けた時いかに危険かは、何となくくらいは想像していただけるのではないでしょうか。

ここで、はっきりといいます。
神秘宗教に真剣に関わると人生が変わります。そして、誰に強制されるわけでもないのに、一度その信仰に足を踏み入れるとやめることは非常に困難だと思います。こういうと「そんなことはない」という人もいるのですが、そもそもそうした人はセルフかどうかは別としてイニシエイションを受けていないか、あるいは受けたつもりで失敗しているか、というどちらにしても「Witchでない人」あるいは「Witchになっていない人」です。

Witchcraftでは神秘に触れた後、それを自分で正しく解釈することも求められます。もし、解釈がまるで見当違いだったり、自分のご都合主義で解釈した場合、手痛いしっぺ返しがきます。それゆえに私は考えることを強調するのです。そして、当然のこととして、「外部からの決まった教え」というものがあるわけではないので、「自分の結論」を出すために、考え続けなければいけないことになりますので、かなり厳しい道であると思うのです。もっとも、私自身で言えば、ようやくそれがある意味辛い部分でもあり、またある意味楽しい部分でもあり、WitchにとってWitchである自覚の根本でもある、という感じにたどり着きましたが、決して楽ではありませんでした。

このような様々な思考や思いや経験から、私はWitchの宗教のあり方や今後どう進化すべきか、というようなことを考え続けていました。そして、あるとき、その進化の可能性を自分なりに示してみる必要性を感じる出来事がありました。以前私が関わったWitchの志願者用の講座に非常に熱心な方がいました。しかし、それなりに学習が進んでいくうちに「私はただ祈りたいだけだったんだ。ただ、感謝し、祈ることだけを求めていたということがわかった」と言って去っていった方がいました。そのとき私は強い衝撃を受けました。Witchの宗教は、「ただ祈りたい、ただ神と女神に感謝したい」という人に応える術をもっていないという現実を見たからです。Witchの宗教が宗教であるといっている以上「ただ祈りたい」という人を受け入れられないということはどういうことなのだろうか、祈り感謝し、その中でその人が神性と触れ合ったとき、それは神秘に触れたことにはならないのか、など色々と悩みました。

こうした人の受け皿としての公教は本当にWitchの宗教には不要なのだろうか、また、Witchの宗教に自分が向くかどうかを知るためにも学びたいという人のために開かれた部分としての公教は本当に不要なのか、ということはこの20年程の間私にとっての大きな課題でした。

たしかにWitchcraftに向く人と向かない人はいます。そして、私を含め、長年Witchcraftの実践者として生きている人間にはある程度、しかしかなり正確に事前に目の前の人がWitchcraftに向くかどうかはわかるものです。しかし仮に向いていなかったとしても、それを自分で確認する道を閉ざす権利があるのだろうか、という疑問もどこかにいつもありました。そうした思いから、考え続けた結果として、自分の伝統に基づいた上で、ではありますが「Witchcraftの宗教の進化」に私なりの方向性を示してみたいと思い続けています。

神秘宗教しかない宗教。
それはある意味車の両輪である公教が欠けた歪な宗教でもあります。
それゆえに、更に神秘宗教としての部分を深めるのか、あるいは公教やそれに準じるものを考えていくべきなのか、それとも両方なのか、色々な視点でその可能性を考え、論じることができると思います。私がここでお話していることは、あくまでも私の考えに過ぎません。賛否両論出るであろう話もかなり含んでいます。しかし、そのくらいの例を挙げなければ、今まだ興味をもっている、というレベルでWitchの宗教に関心を持ってくださっている人にはわかりにくいと思い思い切って書いてみました。

最後に私見ですが、結局Witchの大元は、形はともかくとして、つまりWitchcraftであれ、村の魔女であれ、神秘に触れることのできる特殊な少数派に属する人たちであり、そこで得た知識や、それを応用した薬草などの知識などを利用して、自分の身近な村などの限られた範囲での全体への専門職的な奉仕者であり司祭だったのです。そこを基本に現状と未来を考えていくのが案外順当な考え方なのかもしれないと思います。

(初出:橘青洲ブログ 2007.9.7 改訂2021.6.14)

4.宗教の定義 ~Witchcraftの宗教観の前提として~

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