2.神秘宗教と公教

majyosyukyo Witchcraftという宗教

Witchcraftという宗教は先にもお話したように神秘宗教です。
神秘宗教とは人が神性と直接対峙し、それによって神秘体験、つまり奇跡や啓示などを体験するという秘教的な宗教のことです。

神秘宗教について色々な説明がありますが、形の上で言えば「宗教の核」になるものです。一般的に宗教としてイメージされるのは公教です。キリスト教で言えば一般信徒が参加するミサであり、神道で言えばお祭りであり、仏教で言えば説法会などがそうでしょう。あるいは冠婚葬祭なども公教の儀式です。イメージで説明するとすれば、お祭りのときに神輿や踊りなどの一般の人や氏子が参加する華やかな部分が公教、同じときに神殿の奥深くで司祭が行っている後悔されない儀式が神秘宗教、という感じに捉えるとわかりやすいと思います。

また「対象とする人」を基準にして言えば、一般信徒のためのものが公教、司祭のためのものが神秘宗教ともいえます。そして、司祭にとっても公教がメインになってしまった宗教は「硬直した宗教」と一般には分類されます。

また、神秘宗教と公教は宗教の両輪ともいえます。この視点からいえば両者の関係は純文学と大衆文学の関係に例えることもできます。

吉川英治が自分の作品を「水道の水」、佐藤春夫の作品を「水源の水」に例えたことがあります。これは同時に読者層に関しても示唆しており、文学者、あるいはその読者というのはピラミッド型になっており、先端には純文学、底辺には膨大な数の大衆文学という構図になっているということです。現代だとその下にさらなるすそ野を持ったライトノベルなどが位置します。言い換えれば、高級な文学と低級な文学の需要量の差であるともいえます。この辺の事情は中村真一郎が『芸術をめぐって』という著作の中で指摘していますが、これが神秘宗教を純文学に、大衆文学を公教に置き換えればそのままイメージとしては成り立ちます。

中村真一郎の指摘を更に参照すれば、高級な文学である純文学は常に題材にしても、表現方法にしても、思想にしても新しい境地を切り開こうとし、それを表現するための新しい視点、新しい考え方、新しい表現を求めるのですが、その代わりに理解者や実践者は当然少なくなります。また、当然前衛的になります。また「低級な文学は、そうした先人の切り拓いた新しい世界を取り上げて一般化する」とも指摘しています。

これを神秘宗教と公教に置き換えたとき、神秘宗教は常に神性との直接的な接触を試み、新たなる神秘を受け取ることに余念がなく、それを一般の人にわかりやすく一般化したもの、が公教だということが言えます。同時に神秘宗教では、常に今の問題に対して神秘を受け取ろうとしているのに対して、公教はそこから時間がたった後に広められるということになります。つまりそこには現在と過去という時間的ギャップがどうしてもあるのです。

ただ、時間的ギャップがあるということ自体は文学でも宗教でも同じとはいえ、そこに大きな違いがあります。それは、文学の場合に中村は「大衆文学は芸術として不誠実」ということであり、同時に「新しい時代には新しい思想、感情、感覚を表現すべきなのだからそれを過去の表現や世界観に頼っている点で人生的にも不誠実だ」と断罪していますが、これを宗教に置き換えたとき、それをそのまま受けいれて単純に議論するということはさすがにできません。

なぜなら、宗教においての神秘宗教と公教の時間的ギャップは神秘宗教で得られたものが現在としたとして、公教で語られることが過去である、と単純にはいえないからなのです。そもそも宗教というものは人生のよりどころを求められる部分もあり、公教に接する人は常に「その人の現在」をそこに投射するのです。ですから、神秘宗教から公教への時間的ギャップは、神秘宗教で得られた神秘を一般化すると同時に宗教的普遍に昇華させなければいけないのです。これが文学における単純な時間的ギャップとの大きな差であり、いいかえれば宗教はこの時間的ギャップの間に普遍性を持つように仕上げる必要が求められているのです。これを、文学のように時間的ギャップゆえに不誠実とは単純にはいえないということは、誰もが納得できる話だと思います。

つまり、神秘宗教が純文学のように切り拓いた新しい現在を、大衆文学が純文学の切り開いたものを一般化していくような流れで公教が一般化していく、ということです。これは神秘宗教が切り拓いた新しさの固定化、ともいえるでしょう。

宗教の固定化を嫌う人たちが未知の領域を切り拓くかのように先に進み、そこで得られた神秘を固定化し、ある意味安心して手にできるものにしたものを、普遍化させて一般に分け与えるのが公教といえば、わかりやすいでしょうか。

こうして神秘宗教と公教の違いを考えた上で、思い起こして欲しいことは、Witchcraftの宗教は神秘宗教である、という現実です。つまり、先の例で言えば純文学のみを相手にするのと同じなのです。大衆文学やライトノベルなどといわれる一般の全ての人を対象にした低級な文学ではなく、常に先端を切り拓く純文学と同じ立場を取っている宗教だということです。

このことから、当然、Witchcraftの宗教を従来の一般的な宗教という概念の枠組みや型に当てはめて語ることがそもそも無理だといえます。型に当てはめて語れるものは宗教であれ、文学であれ、何であれ「新しいものではない」ということが前提になります。純文学作家が同じ芸術的誠実さをもっていても描く作品がまったく異なるように、宗教の場合も得られる神秘には違いが出てくるのはある意味当然です。それでも、同じWitchcraftの宗教を実践している人が到達するものはある程度共通します。しかし、その解釈は必然的に人それぞれになってしまうのです。

それゆえに各宗教にある「究極目標」のようなものは、神秘宗教においては、それがどんなに大多数の共通見解だとしても「一つの解釈」に過ぎないということになるのです。そして、魔女の宗教は基本的に公教を持たないので一般的な「その宗教固有の究極目標」を共通するものとしては持たないのです。見方によれば、これが賛否や好き嫌いはまったく別としてWitchcraftの宗教がよく「一人一流派」と呼ばれるゆえんとも言えるのです。だからといって好き勝手に自分の思い込みや、自分の独善的解釈で勝手に自分の流派を作ればよいという意味ではなく、ある程度共通する神秘にたどり着いたものがその解釈の独立性を保てる、ということです。このことは「分かっていない人ほど反論する」のが面白いところです。先の例で言えば、大衆文学やましてもっと低級なライトノベルレベルの人が純文学者と同じ芸術的かつ人生的誠実さを語ったら、冗談にしか受け取られないのと同じことなのです。

こうして考えるとWitchcraftの宗教が神秘宗教であるということが、多くの人のニーズに答えるものではそもそもなく、その必要性も感じず、そして考えることを要求するということがわかっていただけるのではないかと思います。

次はさらにこうした神秘宗教ならではの特徴と可能性、問題点や展望などについてお話したいと思います。

(初出:橘青洲ブログ 2007.9.6 改訂2021.6.14)

3.Witchcraftの宗教にとっての課題

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