2.固定観念という罠

majyonohondana 考えるための覚書

ここでは「固定観念」というものを考えてみたいと思います。

辞書的な意味は上記のリンクを見ていただくとして、ここでは特に、もっとシンプルなとらえ方をした上で色々考えていきたいと思います。固定観念とは簡単に言えば「こうすべきだ」「こういうものだ」と決め付けられたものをそのまま信じ込んでしまうことです。これは人間にとって非常に大切な考えることを捨てさせてしまうものです。なぜならば、「与えられたことを無批判に受け入れてしまう」ことで「なぜ?」という疑問を持つことを捨てさせてしまうからです。これは洗脳と同じです。

固定観念の代表は「常識」です。
別に私は常識を頭ごなしに否定はしませんが、大して尊重もしません。常識は「こういうものだ」という押し付けによって構成されています。しかし、常識は昨日まで絶対に正しいとされていても、あるとき突然正反対のことが正しいとされてしまうことすらあるのです。以下太字の部分はかつて常識だったものです。

例えば、戦前では「天皇陛下は神であり、国のために命を捨てることは当然」という「常識」があったわけです。今こんなことを主張して「お国のために自決せよ」などといったら大変なことになります。

またもう一つ例を挙げれば、固定観念や、それに基づいた常識が正しい、としたら「25歳すぎた女性は若い女性に対して魅力がないからさっさと会社をやめるべきだ」という話や「結婚した女性はもう人のものになっているわけだから、女としての価値がないから、さっさと会社をやめるべきだ」という、平成のはじめくらいまでは当然のこととされていた話にも、無条件で賛成しなければいけなくなってしまいます。固定観念に縛られて、考えるということを止めてしまうということは、そういうことなのです。(註)

自然科学の分野でも近代以前は「地球の周りを太陽などが回っている」ということは疑いようのない常識でした。でも、実際は違います。

また、もし今ここで私が、

「天皇陛下は太陽の神の生まれ変わりである現人神であり、その神聖国家であるお国の為に命を捨てるのは当然だ。若者よ、いつでも天皇陛下とお国のために喜んで命を投げ出せるように、いつそのときが来てもよいように常日頃から意識を高揚せよ。また女子なる者、男子の励みのため常に二歩も三歩も引き、男子を立てることのみを考えよ。また、老いたら潔く身を引き、自分には若さという唯一の価値がなくなったことを謙虚に受け入れよ」

と、言ったら何人が賛成してくれるでしょうか。賛成してくれる人がいるとすれば、かなりおかしな人ではないでしょうか。

しかし、これが高々80年位前までは拍手をもって迎えられる「常識的な正論」なのです。同じ国でも時代によってこんなに変遷するもの、それが常識なのです。こんなにも不確かで危なっかしいものを、なぜ頭ごなしに信じることができるのでしょうか。ここでは深く言及しませんが結婚制度だって、今の日本ではもうかなり怪しいものになってしまっていると言うのに、です。

国が変われば当然常識は変わります。
そして、今は昔と違って簡単に外国にいけますし、外国からも人が来ます。それでも常識を頭ごなしにどうして信じられるのでしょう。

だから例え常識と言えども、一度は自分で考えると言う作業をしないと悪しき固定観念そのものになってしまうのです。これは思想の押し付け、価値観の押し付けです。しかも、いつ正反対のものになるかわからないものに身を委ねることという事なのです。

ですから、なんでも「なぜ」と自分で考える必要があるのです。
そして、考えた上で自分が納得し、正しいと思ったものを「常識」と認めればよいのです。

しかし、流されてしまう方が人は楽です。誰でも楽な道を選びたいと思うのは人の常です。しかし、楽をしたぶん大きなしっぺ返しが来るのも世の常です。固定観念に囚われたり、振り回されることがないように私たちは心すべきなのだと思います。

(註: 男女雇用均等法施行などの前までは25歳をすぎると「職場の華」としての価値がなくなるからという理由で、能力などとは関係なく若い女子社員を入れるために退職をするように会社からプレッシャーをかけられることが常識だったのです。「女性はクリスマスケーキと同じ(12/25になると売れ残ったケーキが大安売りされることから)」という言葉も常識として受け止められていて、女性の側から相手を選ぶ資格があるのは24歳まで、という「常識」があったのです)

(初出:橘青洲ブログ 2007.9.12 改訂2021.6.9)

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