魔女の宗教の予備論考

1.神秘宗教と公教と ~歴史的なものを踏まえて~

そもそも宗教というものは司祭のための宗教である神秘宗教と一般信仰者向け、場合によっては日本の神道のように信仰を持たない一般の人たちにまで向けて開放されている公教という2種類の体系があたかも車の両輪のように動いて、はじめて宗教としての一般的な形が整ったといえます。

神秘宗教とは簡単に言えば、聖職者のための宗教であり、儀式などを執り行う側の宗教だと考えれば一般の人が理解するためのイメージとしては良いでしょう。また、公教は聖職者以外の人たちの祈りの場や宗教思想などを生活にどう活かすかを研鑽する場であるという言い方もできます。

しかし、この説明はいささかわかりにくいし、イメージもしにくいと思います。そこでもっと大雑把に、語弊は怖れずに言うとすれば、夏祭りの神輿をはじめとするいわゆるお祭り騒ぎや、初詣の参拝などが公教であり、そうした晴れやかな騒ぎが行われている神社の奥の方で、神官たちが厳かに、そして誰にもみられないところで儀式を行っているなどが神秘宗教である、といえば多くの日本人にはイメージしやすいのではないでしょうか。他の例を挙げれば、修道院の修道士や修道女が日々実践している宗教活動が神秘宗教であり、結婚式や日曜日のミサ、日曜学校などが公教であるともいえます。これでなんとなく神秘宗教と公教の違いはわかっていただけたのではないでしょうか。

さて、魔女の宗教は基本的に神秘宗教です。これはある意味当然のことで、冠婚葬祭や出産などを司る村の賢者である魔女がいて、その村の人たちはあたかも神道の氏子のような形で、困ったときには助けを求めお礼をする、という緩やかな古代の関係が大本にあるからです。村の魔女は個別に祈りなどを必要に応じて村人に教えることはあったかもしれませんが、村人を宗教集団として組織する必要がそもそもなかったし、今と違い交通機関が発達していなかった為、村人の出入りが頻繁になる、ということもなかったので、宗教集団以前に、村人を改めて集団化する必要がそもそもなかったのです。しかし、そうした緩やかな関係も魔女狩りの時代を含む歴史の中で途絶えてしまいました。そうして、魔女の宗教は神秘宗教のみとなってしまったのです。

さて、一般論としてWiccaをはじめとする多くの現代の魔女やペイガンたちはこうした伝統を意識して、宗教集団化を嫌う傾向が強いようです。これは極めて納得できる考え方です。こうした伝統を大切にしようと思うなら、集団化はそもそも不要であるし、もともとが村に一人、もしくはせいぜい後継者候補の一人二人しかいなかったはずである事実、さらには、近隣の、といっても歩くことが主だった交通手段であった頃にはかなり遠方になるのでしょうが、魔女たちが年に数回集まることがあるかどうか、ということから、魔女同士の年代的な先輩と後輩のようなお互いの敬意はあったにせよ、ヒエラルキーのごときものは存在しなかっただろうし、不要でもあったであろうことは容易に想像できます。だから、いわゆる宗教集団化は存在し得なかった、と言ってもおそらくそこまで事実と食い違いはないと思います。そしてこの精神を受け継いでいるなら、時代が変わったとしても宗教集団化することを嫌うのはある意味当然のことだといえるでしょう。

それと同時に、わざわざ魔女になりたい、という人が一般の村人から出ることも、なかったとまでは言いませんが、限りなくなかったに等しい状況であったことは想像に難くありません。そうなれば、そうした伝統を直接受け継いでいるわけではないにせよ、その伝統を強く意識した現代の魔女やペイガンの大多数が、自分たちは全て神性なる者と直接の関わりを持つという意味での司祭であり、全員が司祭なのだから神秘宗教だけでまったく問題がないと考えるのはある意味当然だといえます。

事実、魔女集団であるカヴンの多くはリーダーを決めはしますが、その権限は限られたものであることが多いようです。カヴンによってはリーダーをメンバーの持ち回りで決める所すらあります。この場合、簡単に言えばサークルの部長のようなイメージともいえるでしょう。もっとも、カヴンはサークルというより家族に近いグループである為、持ち回りではないカヴンにおいては家の代表者のような位置づけになっていることも多いようです。ちなみに私たちはこの持ち回り制を採用していないので(と、いうかそもそも無理だったので)、この制度を採用しているグループについては具体的な数例を知っているに過ぎないのでこれ以上のことを語ることはできません。

話を元に戻しますが、古の魔女の宗教は総じて、そもそもが穏やかな土着の民族宗教、もっと言えば「村ごとの宗教」であったわけです。またその担い手は女性が多かったと言われています。無論、男性の魔女(この表現は日本語としては何とも薄気味悪い表現ですが、混乱を避けるために男女共に魔女という名称を本稿では用いることにします)もいるにはいましたが、多くは女性だったようでした。こうして魔女たちにとっては穏やかなときが流れていたのですが、やがてキリスト教の改宗強制の強硬路線と、キリスト教による医療などの「専門職の男性による独占」を目指す動きが活発になり、それが直接的ではないとはいえ悪名高い魔女狩りにつながっていくのです。

ところで魔女狩りによって「魔女として殺された人たち」は非常に多いのですが、魔女狩りによって「殺された魔女」は意外と少ないといわれています。

これは意外な事と感じられるかもしれません。たしかに魔女としてその地域でよく知られた魔女は真っ先に捕まり、殺されたに違いないでしょう。しかし、魔女とは賢者であったことを思い出して欲しいのです。そうした事件が起こったことを知るや、魔女たちは身を隠してしまい、その結果多くが生き延びたようです。自分たちの存在を明かすことがすなわち死を意味していたので、魔女狩りの嵐が吹き荒れた数百年、完全に表の世界から身を隠したわけです。

もっとも魔女狩りが終わった後でも、魔女たちは安易に安全を信じず、自分たちから表面に出ようとはしませんでした。これはある意味当然であり、賢明であったといえるでしょう。確かに公権力による魔女狩りはなくなりはしましたが、差別という新しい種類の魔女狩りはしっかりと残っていたので、魔女であることを公表するメリットはなかったからです。

ここで歴史の正当性という点について話を移します。現代の真っ当な魔女の多くは「古代から伝わる流れを直接受け継いでいる」という主張をするものは偽者であり、実際には歴史的なつながりも、伝統自体も途切れていると主張する人が主流です。たしかにそうした事例は多く、古代からのつながりを延々と説く魔女の多くは歴史的に検証すると矛盾がすぐ出てきてしまい、そう信じるのは自由だが、と言うものが多いのは残念ながら事実です。(魔女の歴史というもののとらえ方については橘師の『魔女の歴史という神話』を是非お読みください。)

しかし、ごく少数ではありますが古い伝統は生き残っています。それは少数とはいえ「古代からのつながりは途切れている」と信じている人たちが考えているレベルからすれば相当な量が生き残っているのです。ただ、その場合も古代からの伝統が「そのままの形」で生き残っているわけではありません。特に魔女狩りの時代に滅んでいったものも多く、また、いくつかの流派の伝統が融合して一つになって残っている場合も多いのです。確かにその意味で言えば、純粋な形で残っているということを考えるのはロマンがある考えではありますが、実際にはそんな生易しい歴史だったわけではなく、伝統は残っていると確信している橘師ですら「純粋な形で」というと問われ方をしたら「ありえない」と即答するのは当然だと思います。

さて、ここからが問題です。
かつてはいうなれば一子相伝の形で継承されていた伝統であり、また外部から魔女を志願してくるものもいないに等しかった時代は、裏を返せば

「村に魔女は一人いればいい」

という存在だったことがおおむね事実でしょう。だから魔女の宗教は神秘宗教だけで何一つ問題がなかったわけでし、もっと言えば、魔女狩りの時代を生き延びることができたのも、人数が限られていたから一旦本気で魔女が表面から姿を消し、闇に逃げ込んだ時、どんなに必死の捜索をされても魔女狩りであぶりだすことができなかったともいえるのです。

2.インターネットと現代の魔女たちの迷走 ~黒船は通りすぎていった~

今やWiccanをはじめとする「新しい魔女たち」は自分たちの存在を明らかにし、その素晴らしさを語り始めました。さらにインターネットの発展がそれに拍車をかけました。当然の流れとして、魔女になりたいという志願者の数は急増し、特に1996年以降は年々爆発的に増えてきました。

ところが、実際の魔女たちにはそうした需要に十分応えるだけの力を持っていませんでした。まったく持って無責任な話と言えばまったくその通りです。そこで「魔女になるにはイニシエイションが必要」といいつつも「セルフイニシエイションでも良いのではないか」ということを言う魔女や魔女志願者が増えるのは必然的なものでした。

しかし、自分がイニシエイションを受ける機会に恵まれず、仕方なくセルフイニシエイションをした魔女たちが言うならともかく、イニシエイションを与えることができる「自分はイニシエイションを受けている魔女たち」からも同様の言葉が出てくるということには納得できません。

また、よく聞かれる話ですが、イニシエイションを受けることを前提とした場合、志願者は既に魔女である人に認められなければイニシエイションを受けることができない、すなわち魔女になる第一歩を踏み出すことすらできない、ということです。

これは確かに魔女は箒に乗って空を飛ぶ、などの話をいくら説明しても実現可能だと信じている人たちを除外することには役に立つし、事実そう考えている人や、その考えを捨ててくれない人もかなりいるので、一理はあることだといえます。また、魔女志願者には現実問題として深刻な精神障害を抱えている人や、自分に何か特別な力があるという妄想に取りつかれている人が多いのも事実です。しかし、中には箒に乗って、などというお伽話の魔女ではなく、また妄想もなく、まともな宗教として捕らえている人でも「たまたま知り合うことができた魔女に個人的好みで拒否される」ということもあるのが事実です。明確な基準がないだけに自分の好き嫌いで真面目な志願者の魔女への道を断ってしまったりするという例もあることは誰でもが容易に想像できるでしょう。

また、志願者の中でも、魔女の信仰を知るにしたがって、自分は本来の司祭としての魔女より、ただ魔女の考え方に沿った生活をしながら祈りたいだけ、という人が出てくるのも当然の流れです。そもそも宗教は「ただ祈りたい」という素朴な欲求から始まることが現代に限らず多いものでしょう。しかし、神秘宗教のみの魔女の宗教にはそれにすら応えるだけのものを「形として」持っていなのです。

これはいくら「魔女の宗教は神秘宗教だから」と言ったところで、私たちも含めて当の魔女たちが本やインターネットで自分たちのことを声高に紹介しているのですから、無責任極まりない態度であることは自明です。もっと意地悪く見ればイニシエイションを受けている魔女が、セルフイニシエイションを志願者に勧めたり、イニシエイションを受ける機会を増やす努力をほとんどしていないのは、単なるエリーティシズムなのではないか、という見方までできてしまうのは当然のことでしょう。

事実、橘師も若かった頃、当時の志願者の方々から、このことを指摘された時、当時の自分の非力を詫びると同時に

「言い訳ならともかく、まともな反論はまったくできないということを無条件に認めるしかなかった。そしてこれこそが私にとって今後の一番の課題の一つだ、と強く思った」

と語っています。

こうした状況は何を意味するのでしょうか。これはすなわち

①志願者に学ぶ場やイニシエイションを受けるチャンスを増やすこと
②また学んだ後にただ祈りたいという素朴な欲求にたどり着いた人たちをも受け入れられること

ということでしょう。

これを言い換えれば現代の魔女の宗教は神秘宗教の閉鎖性を全てにおいては(もちろん必要な部分は残りますが)必ずしも必要としない、しかし、いい加減なものではない「新しい時代に対応できる受け皿」が必要になってきているということなのです。

最近はかつてほど減ってはいるものの、現代の魔女たちは神秘宗教であることを盾に、他の宗教と比べられては困る、他の宗教と比較して考えるなどというのは魔女を知らないからだ、などと言い切る人が今でも多い傾向があります。また、魔女の言う神秘宗教を公教と比較して論じること自体が間違いだという意見もあります。ですが、これは乱暴極まりない話で、神秘宗教という言葉はもともと公教という言葉との対でできた言葉なのですから、違う意味で使うのならば「公教とは対比できない神秘宗教」という言葉の定義をすべきです。この定義が矛盾を導かないものであれば、それは「神秘宗教という言葉の新しい意味」となるでしょうし、それが納得できるものなら言語的な市民権も得るでしょう。これはそもそも「魔女論」の議論ではなく「純粋な言葉(日本語)」議論です。

つまりその再定義をきちんと明示しない状況で、もともと存在する宗教学上の用語を「私は違う意味で使う」というのでは、「裏と表というの言葉を対比して論じるのは間違いだ」と言いつつ、ならばどんな言葉と対比させればいいのか、を提示しないのと同じであることは自明です。これを橘師はよく「私はこの言葉を辞書に載っている意味で使うのは嫌だ!!と駄々をこねているのと同じ次元の話」と断じていますが、まったくそのとおりです。

さて、神秘宗教と公教についての議論はきちんと書くと本一冊分くらいに簡単になってしまうので、この程度でとりあえず棚上げすることにして「時代が魔女の宗教に新しいステップを求めていることが自明」ということについて話をうつします。

結論から言ってしまえば、魔女の宗教を取り巻く状況は、多くの魔女の宗教を求める人たちによってもっと門戸を開くことが強く求められている、という事です。言い換えれば、周囲の状況は魔女の宗教自体に、門戸の開放という外的要請を拒絶し古い殻に立てこもることの放棄を求めているのでしょう。しつこいようですが大事なことなので繰り返せば、一言で言って「魔女の世界への黒船来航」ということなのです。

この文章は2007年に書かれたものを改訂しています。そこには上の続きとして、

『とはいえ、現時点ではそれが正しいのかどうかはわからない、としか言いようがありません。なぜなら、外的要因が求めているものが常に正しい、ということは誰が考えてもありえないことだからで、それはこの問題にも当然適用されるべきだからです。しかし、正しいかどうかは別問題として、それにどう対処するかという態度は大きく2つにならざるを得ません。曰く、その外的要請を断固拒絶すること、曰く、その外的要請を受け入れること、の2択です。そして、同時に自覚しなければならないことは、そういう状況を作ったのは間違いなく「魔女たち自身」なのである、という事実が大前提となることなのです』

と、あります。しかし、結果として今見返すと、その「魔女たち自身による開放」は行われず「自称魔女に詳しい魔術師やスピリチュアル系の人などの部外者たち」によって混ぜ返され、宗教よりも、よりオカルト的な方へ日本での主流が流されていった、という残念な結果が見えてきます。そして、本来のペイガニズムの魔女への希望者にとっての道はまるで増えていません。

3.Oriental Wiccaはこの要請にどう応えようとしたのか? ~魔女の公教という試みと失敗~

本当ならこのタイトルを『Oriental Wiccaはこの要請にどう応えたか?』としたかった所ですが、今になって振り返るとそうは書けません。

前項で神秘宗教と公教という考え方が魔女の宗教に押し寄せてきた時代が続いたことを簡単にまとめてみました。無論、議論の甘いところがありそうだと思う部分は無きにしも非ず、なのですが、とりあえずこのくらいを共通認識にして話を進める方が建設的であるといえるでしょう。この文章のオリジナルが書かれたのは2007年でした。そして今、振り返ると、この波が大きかったのは1998~2005年くらいまでで、そこからは散り散りになり、もう波といえる程のものにはならない状態で現在に続いています。

さて、この魔女の宗教に対する外的要請についてどういう態度を取るか、という問題についてOriental Wiccaでは2007年の段階でInner Light House(ILH)という公教的なものに発展するかもしれない団体を作る試みをしましたが、実際にはそれほどの反響もありませんでした。

増えたのは「インターネットを含む遠隔できちんと教えることは無理がある」という理由も事前に書いておいても「インターネットだけで完結できる通信教育をなぜしないのか?」という、要望というか不満というかをぶつけられることが増えただけ、という現実でした。

また、TwitterなどのSNSの影響も大きく、こうしたものを利用することでその「精神」よりも魔女になるための「ノウハウや知識」を得ようとする人が人口比率的にも増えてきたのがこの10数年でした。この10数年を振り返ると当初の意気込みに反して、結果としてILHの試みは失敗であり、ある意味期待しすぎたことからの期待外れだったという事実を認めるしかないという結果だった、といえるでしょう。

4.そして今、Oriental Wiccaの応え ~魔女の通信教育から「ゆるふわ魔女」まで~

2007年にILHを創り、数年後に挫折したことを前項で述べましたが、それでも私たちは私たちなりの応え方を模索し続けました。それはある意味失敗の連続でしたが、そうした中で色々な方々のご意見やご協力の中で段々と形になってきました。そして完成したOriental Wiccaが到達した応えがイニシエイションまでのルートを明確化した魔女の通信教育School of Witchということになります。School of Witchも実際に動き出してみると、受講生の方々から教えられることが多く、当初準備していたものは結局参考程度にしかならず、教材も全部作り直しながら日々深化しているような感じで進んでいます。そして何よりも2020年からのコロナ禍はよりオンラインへの依存を高めるなど大きく影響しました。しかし、この経験はコロナ以降にも大きく生きる私たちと受講生のみなさんとの大切な共有財産に育っていくと確信しています。

ここから公教的なものに繋がっていくのか、どのように育っていくのかはまだわかりません。しかし、きちんとしたイニシエイションを受けることが可能な道を明示することと、オンラインを可能な限り活用すること、まではできたと考えています。実はこの事が非常に大切で、これがベースとしてあることがさらなるWitchcraftのすそ野を広げることになると考えられるからです。昔から一定数の需要がある「ただ祈りたい」「魔女的な生活を送りたい」「魔女の生き方を人生に取り入れたい」などという一見「ゆるふわ」とでもいえなくもない人たちの存在があります。こうした人たちを仮に「ゆるふわ魔女」とでも呼びましょう。ゆるふわ魔女はたしかに最初からイニシエイションを受けることを目標にして人生を捧げるほどの深刻さをもって取り組んでいる魔女たちから見たら真剣さに欠けるように見えるのかもしれません。しかしその視点からだけ見ているのは正しい認識ではありません。ゆるふわ魔女たちは決して真剣でないわけではないのです。ただ公教的なWitchcraftを求めている、というだけに過ぎないのです。これをもって真剣でないというのが間違いであることは明白です。たしかに神秘宗教からだけの視点で見れば真剣みにかけると言うように見えるのは当然です。しかし求めているものが違うのですから、その点を見誤ってはいけません。もちろんそれが全てとは言いませんが、もしかするとこの「ゆるふわ魔女」を目指す人たちに応えていくことが魔女の公教の一つの「初めの一歩」になるのかもしれません。

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