Witchの宗教が神秘宗教である、という話は書きましたが、ここでWitchの宗教観を述べる前提として「宗教の定義」を考えてみます。宗教がそもそもどういうものであるかはすでに「宗教とは仮説体系である」ということを述べました。ここでは更に一般化と拡張をしていきたいと思います。
さて、宗教の定義というのは案外難しいものです。手元の国語辞典を6冊ほど眺めても、一般的な公教の宗教や宗教団体についてなどを軽く触れてあるだけで、およそ「宗教の定義」というにはお粗末過ぎる代物になっています。
そもそも「宗教という言葉」自体が漠然としています。
広く意味を持っているといえば聞こえはよいですが、結局のところかなり広範な思想領域を大雑把にまとめて一つの言葉であらわしている、逆をいえばどうにでも使える言葉となっているようです。ある意味神秘宗教と公教の話のところで例として用いた「文学」という言葉より桁違いな曖昧さをもっているとも言えます。
宗教の定義としてはヘーゲルのものが哲学者などの中ではよく用いられます。しかし中村圭志氏が指摘しているように、ヘーゲルはたしかに「哲学的立場から宗教の定義」をしたとはいえ、ヘーゲル自身が「キリスト教こそ最高の宗教」という立脚点から述べているのでこれは客観的な定義とはいえません。
そこで全体集合的な言葉だと割り切って他の言葉に置き換えるなら「ある種の制度」というのが適切のような気がします。この制度というものを言い換えれば、各人各様な意識の中の世界観ともいえるでしょう。もっともここでいう「世界」とは、閉じられた体系の中で矛盾を起こさないシステムという意味程度です。
しかし、これではせいぜいWitchの世界観を、しかもある意味限られた種類のWitchにとっての世界観を述べるだけになってしまい、深く考えたり、あるいは他の宗教の人と話をするには心もとなさすぎます。そこで一般的な言葉の定義、という意味を考えることにします。つまり、「宗教」とは言葉はどういう意味を持つか、という点を単純に語意から見ることで、言語としての定義を考えていきます。
「宗」という文字は、神を祀る為の社で神を祀る様を表すというものがもともとの意味です。そして、転じてそれを主宰する族長や司祭のことも意味に含んでいます。また「教」という文字には、教える、諭す、導く、教えなどの意味を持っています。
これらをあわせて、言語的には
「神(神性や聖なるもの一般をこの場合さします)とそれに仕える司祭などによって教えを受けたり、導かれたりするもの」
ということになります。
もっとも、日本語の「宗教」という言葉は、「根本となる教え」を意味するとされる仏教由来の漢訳語ですが、英語のreligionの訳語として、明治の初年から広く用いられるようになりました。religionの語源は、不思議な物事に接したときの畏怖や不安などの感情とその対象に対する儀礼を意味します。
考古学や歴史学はこれを裏付けています。
「魔女について」でも簡単に触れていますが、宗教の歴史は文明以前、つまりネアンデルタール人やクロマニヨン人などの人類の祖先の残したものにも宗教儀式や祭儀の証拠を見ることができ、まさにホモサピエンス以前から連綿とつながる人類の歴史そのものといえるのです。また、底手も軽く指摘をしてあるように、古代の人類にとって嵐や干ばつ、あるいは吹雪などの脅威となる自然現象や、それ以前に我々からは当然としか思えない四季の移り変わりまでもが人知を超えた不思議なものに感じられ、そうしたものに対する畏怖や畏敬の念などが原始的な宗教観念を産み出したのは考古学的にも一般的な常識になっています。
こうした自然に対しての感情や死や病気、出産などの人生上の避けがたい出来事に対してそれを司る者を擬人化したイメージで捉えた上で信仰、礼拝することにより平穏を得ようとする精神文化が宗教であると導けるでしょう。これは古代の遺跡などから発掘される当時の宗教の実際を伝えるものが全てアニミズムや自然崇拝であり、シャーマンなどによる呪術が中心となっていたことを考え合わせると納得できることです。
宗教学者の芹川博通による
「宗教とは、人間の生活に、究極な意味づけや価値をあたえると人々によって信じられている神聖性をともなった文化現象をいう」
と、いう定義はこの面をある意味端的に捉えているといえるのかもしれません。
芹川博通の定義を考古学に対して持ち出したところで、次に宗教学の分野から眺めます。しかし、ある意味新しい定義を作ることが宗教学者の仕事という側面もあるのでかなり混乱してしまっているのですが、森岡正博が『宗教なき時代を生きるために』(法蔵館 1996)で出した定義、
「宗教とは、教祖と教義と教団活動などが総合された運動体のことであり、宗教性とは、生死とは何か、死んだらどうなるのか、なぜ私は存在しているのかと言った、人間の生命の本質に関わる宗教的なテーマのことである」
というものが、一般的に宗教と宗教性を形上から定義したものとしては、仮に足りない部分が大いにあったとしても、納得できるものだと思います。また、岸本英夫が『宗教学』(大明堂 1961)で述べている
「宗教とは、人間生活の究極的な意味をあきらかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、人々によって信じられているいとなみを中心とした文化現象である」
というものは、岸本自身が東大卒業後にハーバード大で研究生活を送ったという経歴を持つにもかかわらず東洋の神秘宗教に造詣が深かったことも考慮すると非常に含蓄があるといえるでしょう。
こうしたことをまとめると、あくまでも一般的に宗教というものを定義しようとした場合、
①宗教とは、無条件に一定の前提や価値観で構成される仮説体系を自分にとっての事実として認めることで成立する体系で、それは神性や聖なるものなどのように想定する宗教でも同じである。ただ、同じ仮説体系を認める、ということではあっても、宗教が定義に困るほど数多くあることからも、万人の共通認識に立てる事実にもとづくものではない。この点が宗教と自然科学の違いである。
②必づしも全てを要素として必要とはしないが、一般的に教祖と教義と教団などの運動体であり、それは複数の人間による統一された見解に基づいた集団であること。
③独自の仮説体系に基づいて人間の内側と外側の事象に対して意味を与えるものであること。
と、言うように定義できると思います。
無論、これはできるだけ客観性を求めてはいますが、異論が出ては来ると思います。しかし、Witchが自分たちの宗教について考えるとき、Witchの宗教観を語るにはこのくらいの定義の方がよいと思います。
次はこの定義を使いながら、他の宗教学的な定義も必要に応じて言及して「Witchの宗教観」についてをお話したいと思っています。
(初出:橘青洲ブログ 2007.9.9 改訂2021.6.14)