第1信 祈りの本質

あなたは、「祈り」と言うことをどういう風にとらえているのでしょうか。

宗教家が祭壇に向かって、素人には何のことだかわからない呪文のようなものを一心不乱に唱えている、そんなイメージでしょうか。あるいは、葬式や法事などで、眠気を誘うお経のようなものでしょうか。

どれも祈りには違いありませんが、それに祈りの本質を感じることは大変むずかしいというのが現実でしょう。確かに、祈りを捧げている僧侶などは、そうした専門の勉強もしているわけですから、自分が唱えているお経などの意味もきちんとわかって祈っているのでしょうし、彼らの真剣な気持ちにけちをつけるつもりは全くありません。

しかし、どんなにありがたいお経などを唱えられても、聞いている者にそうした素養がなければ、何のありがたみも実際にはないと思います。

私がここであなたにお話したいことは、自分に役に立つ、あるいは自分の為の祈りについてです。

「祈り」というものの本質は、「困った時の神頼み」だといえます。もちろん、ありがたいお経も、世界平和の祈りも、立派な「お祈り」ですが、そこには「切実さ」がどうしても欠けています。もし、あなたが、失業して、今晩食べるものにも困るくらいに困っている時に、遠く、見たこともない世界の飢えた人のために祈ることができるでしょうか。自分は食べられなくてもよいから、会った事も、そして会う事もないだろう人たちの為に、祈ることができるでしょうか。もし、祈ることができたとしても、それが続くでしょうか。そして、それは自分が食べるものを得る為にする祈り以上のものでありつづける自信がある、と常に断言できるのでしょうか。答えはほとんどの人が「NO」ではないでしょうか。そして、それは当然のことだと思います。

まづ、「祈り」を自分のものにする事が最初にすべきことです。その為には、

「自分の為の祈り」

に精通することです。

次に「自分の大切な人についての祈り」を自分のものにすることです。

そして、自分の大切な人たちの範囲を拡大する努力をすることです。世界中の人たちがあなたにとって「大切な人たち」になれば、あなたの捧げる「世界平和の祈り」は本当に力のある祈り、となるでしょう。

くれぐれも、自分についての祈りに精通するまでは「世界平和」などのような「自分にリアリティがもちにくい祈り」は試みないで下さい。それは、多くの場合、「自分に嘘をつくこと」に抵抗を持たせなくしたり、安易な逃避に人を導くからです。こうした人には、「力のある祈り」をすることができなくなってしまうからです。

さて、それでは、「力のある祈り」とは一体どういうものでしょう。それはたった一言でたります。「力のある祈り」とは、「現実を自分の望むように変化させるパワーを持った祈り」です。例えば、病苦を味わっている人が、そこから開放されたいと祈る祈りであり、人間関係で悩み苦しんでいる人がその苦しみから開放されたいと祈る祈りであり、人生に行き詰まりを感じている人に明るい未来を現実のものとして与えてくれる祈りです。

 今あなたは何かに悩んでいますか?
 今あなたは何かに苦しんでいますか?
 今あなたは何かから開放されたいと思っていますか?

そのように色々考えて、今一番自分に必要なものを探し出してください。そして、そのために祈ってください。それが全ての始まりなのですから。

それでは次の手紙でお会いしましょう。

第2信へ

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