魔法について

魔女というと「魔法」というのが、多くの方のイメージではないでしょうか?

たしかに私たちは「魔法」を使います。

それはおとぎ話のような、杖の一振りで奇跡を起こすなどと言うものではありません。

でも、そういう派手なものはありませんが、

私たちはたしかに「魔法」を使います。

それはオカルトものに出てくるような、ほれ薬のつくりかたでもありません。でも、そういう怪しげなものではありませんが、

たしかに私たちは「魔法」を使います。

それは決して、ファンタジー小説にでてくるような、ほうきで空を飛ぶようなことではありません。
でも、そういう眼に見えた不思議さはあまりありませんが、

私たちはたしかに「魔法」を使います。

ここでは、私たちにとっての実際的な魔法についてのお話をしています。

魔女と魔法
 
英国のマーガレット・A・マレー博士が1921年にその著書の中で古代信仰としてのWitchcraftを紹介したときに、魔女という宗教の内容を「宗教的Witchcraft」と「効能的Witchcraft」と分類しました。魔法はこの分類に従うと「効能的Witchcraft」と呼ばれる側面です。

古代の人にとって、狩猟でみんなが飢え死にしないですむだけの獲物が獲れることや、冬を越すのに十分なだけの作物が実ること、あるいは病気の回復などは、神々や女神に祈る以外に方法がありませんでした。彼らにとっては1日1日が死活問題と背中合わせだったのです。そうした中で、効果的に、そして確実に神々や女神が願いを叶えてくれる「祈り方の体系」を編み出していきました。そうした「技術体系」はのちに「魔法」といつしか呼ばれるようになりました。

魔女は数百年にも及ぶ、キリスト教による魔女狩りという迫害で絶滅の危機に瀕しました。そして、その時にこうした知識の多くも失われてしまいました。しかし、そうした歴史を乗り越えて、その一部は口伝の形で残りました。それが「現代の魔法」なのです。

やがて、そうした「魔法」の技術はより現代的に改良されるようになりました。例えば、今の世の中で、いくら効果がある魔法だとはいっても、「猪がたくさん取れる魔法」をやりたいと思う人がどれだけいるでしょうか?逆にラスコー洞窟の壁画が描かれた時代に「銀行に就職できる為の魔法」を行いたいと思う人がいたでしょうか?こうした、時代の必然性に合わせる形で「魔法の技術」は変化していったのです。

本来、宗教と言うものには「神秘性」や「ミステリアスな部分とそれに誘発されるときめき」というものがありました。しかし、硬直してしまっている多くの宗教にはそうした部分が失われているか、残っていても痕跡程度になってしまいました。しかし、魔女はそうした部分を今でも残しているのです。もちろん、それには魔女狩りの時代に「古代の叡智を残すこと」で精一杯だった、という外部要因があったことも否定はしません。しかし、それだけではなく、魔女の信仰自体が「神秘性」や「ミステリアスな部分とそれに誘発されるときめき」といったものを大切にすることが信仰方法の中心であったことが大きな理由だと思います。

「現代に生きる古の叡智と技術の保持者」

それが、「魔法使いとしての魔女」なのです。ただ、こうした事を理解していれば魔女の魔法は魔女でなければ使えないわけではありません。魔女に方法を習っただけでも、この心が分かっていれば誰でもつかえるものなのです。

魔法の本質

それでは、魔女における魔法の本質とは何でしょうか。それは一言で言えば、神々や女神に「自分の望みを叶えてもらう為の祈り」です。

日本語では「困った時の神頼み」という言葉がありますが(外国語にも似たような言葉はあるようです)、それが必ずしも叶えられる保証はありません。極端な言い方をしてしまえば、魔女はこうした「神頼みが叶えられる可能性を最大限にする方法」を体系として持っているのです。もっとも、それは決して「簡単な方法」や「楽な方法」という意味ではありません。ただ、「確実な方法」というだけのことです。

大切なのは「祈り」であり、その「祈りの質」です。それがあって初めて、魔法と言う技術は効力を持ちます。「祈り」のない魔法は、ガソリンが1滴も入っていないメルセデスやリンカーンのようなもので、どんなにそのもの自体が素晴らしいものでも、まったく前進はしないのと同じです。

Oriental Wiccaでは、「祈りの質の向上」の為のガイドラインとして、

 1.本当にその望みは切実なものか?
 2.魔法以外の方法は全て試したか?
 3.自分は考えうる限り、できうる限り、最大限の努力をした、と胸を張っていえるか?

と、いうものを設けています。この3つをクリアした上での魔法は、どんなに難しい問題でも、ほぼ確実に「魔法」で解決できることは間違いがないからです。そうして行われる魔法は純粋な力として現実に働きかけます。そこには目的の内容などは関係ありません。だから、魔女は魔法を黒だの白だのと色分けすることはないのです。

さて、そう考えると、杖の一振りで誰かをカエルに変身させたり、ホウキで空を飛ぶ魔法がないことも納得できるでしょう。そんなことを切実に祈る人がいないからです。気に入らない人をカエルに変身させるよりも、その人が善い人に変わってくれるほうが良いですし、ホウキで空を飛ぶよりも飛行機が墜落しないように護符を作るほうがよっぽど現実的だからです。

魔法と司祭

魔女には、他の宗教と同じように司祭がいます。しかし、他の宗教との絶対的な違いとして、魔女の司祭は「人と神の間に立つ者」ではない、ということです。人は各々神や女神と直接語り合えばよいのですから、その間に立つ者など、始めから必要がないのです。

それではなぜ、魔女にも司祭がいるのでしょうか。それは、魔法の力が必要な人が必づ魔女であるとは限りませんし、魔女だとしても、その人が自分の問題を解決するだけの技術を持っていなかったときに、それを手伝ったり、あるいは教えたりする為、と言うことが理由の一つとしてあげられます。他にも神や女神の声を直接聞きたくても聞けない人もいるわけですから、そうした場合の神託を得るディビネーション(divination)う行うなどの他にも理由はもちろんあるのですが、これだけでも、司祭が必要な理由としては十分でしょう。

つまり、魔女の司祭は司祭であると言う理由で存在意義があるのではなく、それだけ多くの人を手助けする知識や技術を持っている人という所に存在意義があるのです。

もちろん、宗教的側面からのもっと大きな意義もあるのですが、それはここでは本論の趣旨と乖離してしまうので割愛いたします。

魔法の仕組み

魔法によって祈りが叶えられる仕組みの概略を説明します。まづ私たち人間の精神構造を単純化すれば図のように捉えています。

さて、それがどんなに切実なものでも「顕在意識」のレベルで祈っているのでは、まず、それは無駄な努力となります。もちろんそれでもかなう時はあるのですが、おそらくそういう時は祈らなくても叶うような場合でしょう。

さて、人間が本当に思いつく限りので力をして、万策つき、そこで祈る時には、ほとんどの場合「潜在意識」のレベルで祈っています。この場合、その祈りのエネルギーが周囲に影響して、叶うことが可能性として高くなります。よく、「奇跡が起こった!」などというのはこの類の場合が多いようです。

魔女は、自分たちの人間の中に「内なる神性」があることを信じています。男性なら神が、女性なら女神が自分たちの本質に在ることを知っています。これは、エドガー・ケーシーが「霊我」と呼んだもの等に近いものです(イメージが近いだけで本質はまったく違います)が、そうした他の概念とは明確な一線を引いているのは、それが、本当に神あるいは女神の一部であり、切り離された存在ではない、と言う点です。

魔法はこのレベルでの祈りを捧げる技術です。このレベルで祈ると、魔法は文字通り、「意識が現実を動かす技術」として、作用するのです。

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