1.宗教と自然科学

majyonohondana 考えるための覚書

よく、科学的な話は信用するが宗教には無理解な人を見かけます。そうかと思うと「コロナワクチン反対」というような自然科学的な思考に理解力がなく宗教だか陰謀論だかわからないものを盲進するような人もいます。この辺りについては『魔女に最も必要なもの』を参照してください。

さて、特に科学を絶対と考えがちな人たちから見ると、宗教というのは、ある意味客観的な根拠に乏しい、地に足のついていないものに感じられることもあるようです。

ただ、私から見ると科学もある意味宗教と同じようなものだと思います。

一つだけ例を挙げれば、今の自然科学の根本的な考え方の原子、それを構成する素粒子である陽子、中性子、電子のどれもまだ人間は見たことがないわけで、それらが「あると信じる」所に立脚しているのは明らかなのですから。

そもそも「科学的に」という言葉を口にする人はどのくらい科学というものの信頼性を理解しているのでしょうか。私はよくこういう質問をします。

「科学と学問の違いはなんですか」

というものです。答えは

「同じもの」

です。このことについての説明は『Witchcraftの実用的用語解説集』 (原題『言葉の定義』)をご覧ください。

科学という言葉の成り立ちを考えると「学術上では」という言い方ならまだしも「科学的に」という言葉はあまり信頼性があるものでもないのです。そして、「学術上」という考え方をした場合、その中には形而上学上のものである宗教も入れざるを得ないので「科学的なものなら信じるが…」と言いたい人には都合が悪いのです。

宗教と自然科学というのは立脚点が根本的に違います。だから本当はそもそも論として「科学」と「宗教」に優劣をつけることなどできないのです。

だから「科学的な話は信用するが宗教には無理解な人」というのは所詮単なる感情論に立脚した主観論者の主観的意見に過ぎないことがいえるわけです。

こう見てみると「私から見ると科学もある意味宗教と同じようなものに見える」という言葉の意味がわかっていただけると思います。しかし、だからと言ってそれが良いとか悪いとかを言いたいわけではありません。「科学的な話は信用するが宗教には無理解な人」が存在する限り、宗教は科学と同じくらいの重みを人間に対してもっている、ということが彼らの存在によって証明され続けている事実を示しているに過ぎないというだけです。

そして、宗教はあくまでも形而上学上のものに過ぎません。それがどんなに将来学術上定理のごとく証明できる真理を示していたとしても、宗教は自らを宗教だという限り、常に形而上学上のものに過ぎず、真理だと主張することはしない謙虚さを保っているのです。

自然科学にしても仮説体系に過ぎません。ゆえに新しい発見によって昨日までの、もっと言えば今朝までの真理が一瞬にして崩れ去る可能性を常に持っているのです。そして、そのつみなおし作業こそが科学の進歩なのです。そう考えると仮説体系である宗教となんら変わるところはないのです。

そしてこれが一番大切なことですが人間にとって「宗教も大事」ですし「自然科学も大事」なのです。間違ってもどちらかがどちらかを否定して良いものではないのです。

こうした視点で物事を見る目を宗教に関わるものほど持って欲しいものだと私は思っています。

(初出:橘青洲ブログ 2007.8.29・30 改訂2021.9.6)

タイトルとURLをコピーしました