Oriental Wicca 創始者 橘青洲 紹介

2月15日生。東京都目黒区出身。神奈川県育ち。

幼少時より小児結核、小児ネフローゼ、脳腫瘍等度重なる大病にあう。それに伴う死の宣告をたまたま何度も耳にしてしまったり、小児科病棟で昨日まで元気だった子供が翌日あっけなく死亡退院していく様を日常的に見ていく中で「自分もいつかはあのようにある日突然死んでしまうのだろう」と、実感する。そうしたことを繰り返していくうちに、小学校に上がる前には、「自分の死に対する恐怖」はいつしかまったくなくなっていた。また、物心がついた頃より「生きているもの以外のもの」が見えるのが普通であり、4歳くらいの頃、霊体が他の人には見えていないことを知り大きな衝撃を受ける。もっとも、このような能力が生まれつきあったことから自分の死に対する恐怖心を乗り越えることを容易にしたというのも結果的にはあるだろう。

小学校、中学校共に出席日数が半分以下だったため神奈川方式により公立高校の入試を受験できず、私立を数高受ける。

中学校の頃友人に誘われて教会に通い始めキリスト教に親しみを持ち、やがては洗礼を受けようとまで思うようになる。そこで東京都町田市にあるミッション系の高校を受けたが試験ができたにもかかわらず不合格。やはり、病気の問題で落とされたと一度は納得したが、クリスチャンであった叔母の紹介で同校に奉職している牧師と教会内で面会。「病気などで不利にならないようにするから2次募集に挑戦しなさい」と励まされる。しかし、不合格。どう考えても試験はできていたので問い合わせると「たしかに試験の成績は十分合格圏でしたが病気をお持ちで体育に参加できないので不合格にしました」という大変ご丁寧な回答を頂く。この件によって「ミッション系学校の教会内で、司祭職からしてこうなのだから、クリスチャンとは嘘つきの代名詞。人間のクズである。イエス・キリストという輩は嘘つきの守護者」と心に植えつけられ、徹底したアンチキリスト者になる。(現在はキリスト教が悪いのであって、イエス自身は自分がキリスト教という新興宗教の教祖になることすら考えてもいなかったと理解しているので、イエスについては特に悪感情を抱いてはいない)

1982(昭和57)年 フリーライターとして商業誌に執筆活動開始。

1983(昭和58)年 個人事務所設立(1995(平成7)年法人化)

学業を続けながらも病気と闘うことだけで過ごしてきた上に、一度はキリスト教司祭への道も考えたことがあった程であったにもかかわらず、前述したようにキリスト教に裏切られた事などから生きている意味を感じられず、かといって自殺もしたくなく「死に場所を求める」という思いで危険なことも含めて様々なことに挑戦し始める。同時にキリスト教に対する徹底して生理的憎悪は持っていたものの、宗教の全てが悪いものだとも思えず、仏道修行、修験道、ヨーガなどの荒行を含む修行をしつつ、様々な宗教の扉を叩く。

1983(昭和58)年、横浜で偶然知り合った英国人の老婦人より精神世界についての教えを受ける。これが実はホームトラディッションのWitchcraftであった。しかし、この頃は仏教(主に密教)等の思想や修行などに興味の大半を注いでいた時期であったので、こういう考え方もある、という程度の認識しかもっていなかった。しかし、その教えが進み1年も経った頃には、これこそが自分が探し求めていた道である、という自覚を持ち、学業の傍らながら、その教えを学ぶことに精進する。断続的ではありながらも2年ほどの教えを受け、教えを習得したことを認められる。

1985(昭和60)年 司祭資格を授与される。

そして、最後の教えを受けた日を境にその老婦人は突然姿を消してしまった。最後の日の翌日、いつものように老婦人宅を訪ねたとき、老婦人の住んでいた家が空き家になっていたのを見てしばらく呆然と立ちすくんでいたことは今でも昨日のように思い出す。

その後2年ほど、教えを実践する機会もないまま日常の生活や学究生活に埋没していたが、原子物理学と量子化学を学んでいる中で、万物の基本構造は同じなのではないか、という視野を得、自分と宇宙の一体感を実感する。その興奮の中眠れない夜が2日続いた翌日、かつて教えを与えてくれた老婦人と運命的、かつ偶然の再会をする。後に老婦人が語った話によれば「準備が出来るのを待っていた」ということであった。

そして、教えはその日から1年間に渡って再開され、最後には一子相伝という奥義を伝授される。これによって司祭長を名乗ることを許され、受け継いだ伝統を元にした上で自分の道を切り開く運命を示される。

1988(昭和63年)年、司祭長資格を授与される。

そして、教えを授けた老婦人は前のときと同じように姿を消してしまい、その後現在にいたるまで会うことは無かった。

1991(平成3)年、自分の受け継いだ伝統を捨てることなく、新たな日本におけるWitchcraftの伝統を創始するためOriental Wiccaを創立

1999(平成11)年に一時的に失明し、翌2000年(平成12年)原因不明の足の障害が与えられ、これは何かのしるしであると悟る。

2001(平成13)年7月に神と女神より強制的な修行を与えられ、現実的困難に日々格闘しながらの厳しい断食修行(体重が1ヶ月で半分になるほどであった)をする。ついに水も受け付けなくなって死を覚悟した瞬間に修行の終わりを告げられ、これを機に宗教者として、自分の生活や人生の全てを捧げる誓いをし、それまでの生活との決別を誓う。その後自分が与えられた神秘宗教の教えと公教の必要性のギャップに悩みながら、生活の中心を困った人の支援に捧げる日々を送る。

2003(平成15)年その「答え」を神と女神より啓示として授けられ、人間の内なる神性を顕現させることによる絶対幸福を教えの中心とし、信仰をもたない人にもわかりやすく教え諭すなどの奉仕活動を開始。

2006(平成18)年11月、唐突に神と女神による試練を与えられ、何を食べても戻してしまい、最低限の水分など以外は受け付けない形で再び強制的な断食修行に入る。その中で現実に対処する事柄の全てを弟子に譲り、自分は神と女神の教えを伝え、具現化することだけが役目であることを悟り、全ての社会的役職などを名実共に降り、宗教者として以外の全ての社会的役割を捨て、約束の地への巡礼を始めた。

2007(平成19)年6月、自らの行動の方向性を決心し、Oriental Wiccaのサイトのリニューアル、関連2サイトの新設などを手始めに、ネット上を中心として新たな対外的な宗教的活動をはじめる。

その後C型肝炎にかかり1年に及ぶインターフェロン治療の失敗とその副作用による鬱状態などに苦しむ中、東日本大震災に仙台で被災。自宅も倒壊し、仮住まいの中で2回目のインターフェロン治療で肝炎を寛解。しかし以来後遺症に苦しむようになる。縁あって山形に移転し、家族の不幸などに見舞われつつも活動を少しづつ再開。以降、秋田、新潟、東京を中心に活動をする。

2021年、Oriental Wicca創立30周年を迎える。

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