1.Oriental Wiccaの宗教的位置付け
Oriental Wiccaは創立者橘青洲が受け継いだ伝統的ウイッチクラフトの伝統に基づいて1991年に創立されました。
橘師が受け継いだ伝統は、はるか古代より連綿と受け継がれた原始信仰を元とし、村の魔女の伝統につながるとされているものです。これは15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された魔女狩りを生き延びた不幸な歴史の当事者たちよによって、当事者のみにわかる方法で生き延び、現代まで伝えられたものでもあります。
しかしながら、その伝統がはるか古代の系譜を継ぐものであるということまではわかっているものの、橘師自身も「その伝統がいつから続いているものかは知らない」と言っています。そもそも、橘師にこの伝統を伝えた老師も、この伝統がいつからのものなのか、という橘師の質問に肩をすくめて「そんな古いことはわからない」というほどであったという話です。
だからといって、これは即ち人類の記録や記憶に残らないほどの古代からの継承である、ということをそのまま示すわけではありません。ほんの1000年や2000年の間でも、その中の誰かが「この信仰がそもそもいつからなのか」ということを忘れてしまったり、伝えそびれたりすれば永遠にその記憶は失われてしまうからです。ましてや魔女狩りの時代に証拠となるものを文書など手にとれるもので記録を起こすことは伝統を残すどころか根絶やしにしてしまう危険を大きくするものだったわけです。一人の人間の「歴史に対する責任」がこんなにも大きい状況は他の歴史のなかでもそうそう無いと断言できます。今となっては想像の域を出ないのですが、おそらくこの信仰がいつからのものであったか、という正確な記憶はかような事情でなくなってしまったのでしょう。
魔女の歴史についてのとらえ方については『魔女の語る魔女の歴史は正確なものですか?』を是非お読みください。
とはいえ、この信仰の多くの先人たちにとって、その由来の古さの厳密な数字などはある意味どうでもよかったことなのかもしれません。なぜなら、自分たちがどんな迫害や弾圧を受けても伝統を命懸けで守り続け、人を助ける仕事をしている、という自覚と誇りが間違いなくあり、その技術などの必要なものはおそらくほぼ全て伝承されていたので、歴史として体系だったものや、その創始の頃のことというのは相対的に重要性が低くなったと考えられるからです。これは現代の橘師たちにとっても同じことが言えるでしょう。この信仰が非常に古い伝統を持つということを知っていれば、それがどのくらいであったかということに本質的な価値がないとまではいいませんが、そこまで重要な意味を持たなかったこともいえるのです。
そうすると「いくら伝統を謳っていても橘師たちの信仰は所詮新宗教の一つだ」という人も多く出てくるでしょう。しかし、そうとる人がいてもそれに反論する気もありませんし、私たちからすれば、それはそれでよい、もっといえばどうでもよいのです。なぜなら、古い伝統を元に橘師が1991年に創立したという事実だけを基にすれば、反論の余地なく新宗教なのですから。そしてそれは単純な形式上のものでしかないですし、その中身が古くからの伝統に基づいていることは実践している私たちひとりひとりが色王なく実感していることだからです。
伝統は大切なものであることと、形式的には新宗教(あるいは新・新宗教)だからといって何ら恥じることもありません。既存の伝統だけの宗教では満足できず、また人生を豊かにすることもできなかった人が多い中、そうした人たちの一部にとって新しい価値を提供するために生まれるのが新宗教であり、逆に古い体質そのままの宗教ばかりでは人類を幸福に導くことは不可能だからです。
もし可能であったという反論をするものがあるとすればこう聞けばよいのです。既存の伝統だけの宗教で世の中から争いごとや不幸はなくなりましたか、と。もちろん無くなっている、と断言できる人がいたとしたら、その人は現実を見ることがなく、幻想の中でのみ生きている人でしょう。そうした人はすでに自分だけは幸せなのだから、せいぜいその幸せが続くことを祈ってあげれば事足りるのです。
このような考えの上で、この信仰は古い伝統の上にあるということを理解しつつ、その上で新しい価値を世に問わんとする新宗教である、という自覚と誇りを持ち、その上でさらに伝えられた伝統の上に新しい伝統を創りあげるという未来に目を向けたものである、といえるのです。
2.私たちはどこへ向かうのか?
この10年ほどのSNSの飛躍的な普及やコロナ禍など10年前には想像もできない方向、形、スピードで世の中も人も変化してきました。
だからといってネット至上主義とも言うべき「なんでもネットで」という考え方に迎合はできないものの、やはり、時代の変化に合わせて何かを考えることはとても大事なことだと思います。
ただ、経験上でいえば魔女の訓練にはどうしても「不便さが必要になる」ところがあります。これは初心者のうちはわかりにくい(あるいは理解不能な)ことだと思いますが、どんなに時代か進み、技術が進歩しても魔女の世界で「不便さが不要になる」ということはないと思います。もしそれがあるとしたら、それはすでに今のペイガンの魔女とは別のものになってしまっているでしょう。
そこで私たちがとるべき一つの手段は「通信教育」という要望を取り入れながらもその中に不便さを取り込むことだと思います。また、デジタルも多少使いつつ、それでもどれだけアナログを残せるか、ではないかとも感じています。そのあらたな試みが今行っている通信教育です。
これからも私たちはこの問題に正面から向き合っていきたいと思っています。