「瞑想が上手くできません」の続きです。この記事を読んでいらっしゃらない方は先に「瞑想が上手くできません」をお読みいただければ幸いです。
さて、前回簡単にご紹介した瞑想法は私がOriental Wiccaで教えている「あるがままの瞑想」という技法を簡単にしたものです。簡単にしたとはいえ、簡単にした部分は指導者なしで自分だけでもできるように簡単にした、という意味ですので本質的な部分は変わっていません。ちなみに今回の記事はOriental Wiccaでも、橘の他のブログなどでも
『文書で「あるがままの瞑想」を公開するのはこれが初めて』です。
前回お話ししたことをまとめれば、どんなに次々と色々な雑念が沸いたとしても「そういう自分がいる」と何度でも言葉として意識し、自覚するということでした。これを繰り返していくうちに雑念が消えて行くのである意味、瞑想して何もない状態に到達する方法としては一番確実な方法の1つです。これが「あるがままの瞑想」なのです。
瞑想というと多くの人が「無」になろうと頑張ってしまうという誤解していますが、瞑想において「無」になろうと努力する必要はないのです。ここがとても大切なのですが、瞑想においては「無」になる努力をするのではなく「結果的に無になる」というだけで、それが瞑想の深さの一つの到達点の確認にすぎない、ということなのです。
この方法を私が人にお話するとよく「ヴィパッサナー瞑想とおなじものですか?」というご質問を受けます。答えは「NO」です。ヴィパッサナー瞑想は調べていただくとよく分かりますが「気づく」事を中心にしています。私が教える「あるがままの瞑想」は「言葉で自覚する」ことを中心としています。これは一見似ているように見えます。しかし実際にやってみるとわかりますがまったくと言っていいほど違った方法ですし、瞑想が導く道もかなり違います。もちろん、究極の境地にたどり着けば、そのたどり着くところは同じかもしれません。しかし、その道筋は似て非なるものなのです。
次回は「あるがままの瞑想」の応用編をお話しようと思います。